DTAL(旧RCEAL)留学記録

2010年1月から2014年半ばまで在学していたケンブリッジ大学理論・応用言語学科でPhDを取得するまでの記録です。

手法先行型の研究について

前記事の一部に関連したことを基に某先輩と議論したりして考えたことを。前回同様、結論もまとまりもありません。


コーパス(や統計)は手法であるという捉え方が主流だと思うのですが、そうすると「コーパス言語学者」は手法を専門とする研究者ということになります。しかしコーパス言語学者は手法の研究者(例えばコーパスの代表性の研究や特徴語抽出指標の研究をする人)だけではなく、むしろどちらかというとその手法を用いて(=コーパスを使って)研究する人を指すことが多いように思います。


ということはコーパス言語学者は手法を研究設問よりも先に決めて研究しているということになりますが、それは問題ないのでしょうか。誰しも手法を一切考える事なく研究設問を決めてからそれに合う適切な手法を選択しているとは思わないのですが、少なくとも研究過程で望ましいとされるのはその順番(研究設問→手法)だと理解しています。しかし多くのコーパス言語学者の場合「コーパス利用」が研究の前提としてあり、コーパス利用が効く範囲を研究対象としている(手法→研究設問)のではないでしょうか。これは直感的に正統な研究過程ではないように思います。例えば研究手法の教科書に「先に大まかに手法を決めてから研究設問を決めても構わない」と書いてあったら私は非常に違和感を感じます。


しかしなぜ手法先行型研究が問題なのかというはっきりとした理由が思い当たらずに、ここ最近考えていました。


上で述べたような「手法先行型」の対極にあるのは「研究設問先行型」で、どの研究もその直線上に位置すると思います。両端の例を挙げれば、手法先行型の研究が「Cambridge Learner Corpus(CLC)を使って研究がしたい→CLCの特長は含まれている学習者の母語が多様なことである→それを活かすには転移の研究が良い→転移の研究を行う価値がある研究課題は何だろうか→形態素習得順序研究」という順を辿るのに対し、研究設問先行型の研究が「SLA関連の文献を読む→形態素習得順序研究で母語の影響がないとされていることを知る→本当にそうだろうかと疑い確かめてみることにする→手法は何が良いだろうかと考える→CLC」という順を辿るというようなイメージです。


ここで問いたいのは、この手法先行型と研究設問先行型の連続体は研究を評価する尺度なのか否かです。もしもどこを取っても研究成果や最終プロダクトである論文が変わらないのであれば、少なくとも結果の評価としては両者に違いは生まれません。この場合は研究は(論文を含む)結果以外も評価されるべきなのかという問になりますが、結果が同じであれば分野への貢献度が同じであるように思いますし、特段ほかに評価すべき項目は思いつきません。


ではもしこの連続体上で取るスタンスによって研究成果・論文に影響があるとすれば、それはどのような影響なのでしょうか。実際の研究過程に目を向けると、研究設問先行型の研究を行う人も手法としてコーパスを選択した場合はコーパスについても読まなければなりませんし、プライミングを選択した場合はプライミングについて読まなければなりません。手法先行型の研究の場合もコーパスの知識だけで研究はできませんから、研究対象分野(例えば形態素習得順序研究)の文献を研究設問を決める際に、あるいは決めた後に読まなければいけません。そうすると結局どちらを先に行うかというだけの問題で、成果・論文はほとんど変わらないものが生まれるように思うのですが、そうだとすると結局この連続体は研究の良し悪しを判断する尺度ではないということになります。


手法先行型の研究も研究設問先行型の研究も同程度に妥当である、ということで良いのでしょうか・・・。


またここまで手法=コーパスを例に話を進めてきましたが、これを手法=統計とし、統計手法先行型研究(用いる統計手法を先に決めてから研究テーマを探す)とコーパス先行型研究に分けると、前者は後者と比較して更に妥当性・正統性が落ちるような気がします。(この直感が多くの人に共有されるのなら)両者とも持ち駒から考えるという点では同一なのにどうしてそのような差が生まれるのか、この直感の出所も気になっています。