DTAL(旧RCEAL)留学記録

2010年1月から2014年半ばまで在学していたケンブリッジ大学理論・応用言語学科でPhDを取得するまでの記録です。

私の英語学習歴

本稿はanfieldroadさんの「『英語教育ブログ』みんなで書けば怖くない!企画」 (http://d.hatena.ne.jp/anfieldroad/20110301/p1) の一環です。職業等は問わず、英語教育に関心のある人が同じ日に特定テーマでブログの記事を書こうという趣旨です。anfieldroadさん、面白い企画をありがとうございます。今後も書けそうなトピックなら参加しようと思います。


初回のテーマは「私の英語学習歴」。書き始めてみると思いのほか長文になってしまいました。考えてみると中学校以降は常に英語と何かしらの関わりを持ち続けているので、英語学習歴を書こうと思うと半生を振り返るような形になるのは当然なのかもしれません。


【中学校時代】
中学入学以前は特に何もしていません。ローマ字も怪しいままに、地元の公立中学校に入学しました。当初は英語は(正確には英語「も」)とても苦手で、最初のテスト(中1の1学期の中間テスト)では30点台後半で評定は1年次はコンスタントに5段階評価の2だったことを覚えています。今もですが、とにかく暗記が苦手・嫌いだったんですね。アルファベットを覚え、その連鎖(語)を覚え、なんてことは最もやりたくないことでした。


ところが、父の仕事で中学卒業後の三年間を国外で過ごすことが中学2年の冬に決まってしまい、それと同時に当時売れ始めていたNOVAに通い始めました。NOVAの主な効用は外国人と話すことへの心理的抵抗が和らいだことと、既習事項を産出することにより自動化が促進されたことだと今では思います。振り返ってみても、NOVAは新しいことを学習する場所ではなく(場面シラバスのテキストがありましたが、行きあたりばったりの、いわゆる「英会話」的な語彙・表現を除いて、新しいことを学んだ記憶はありません)、明示的に学習した内容を練習することによりアクセススピードを高めるために利用するのに適している場所だと思います。


NOVAを通してインプットが増えたのと、国外で暮らすという心構えから英語に対する意識が高まっていたためか、中3に上がる頃には英語の成績が飛躍的に上がっていました。それに伴い英語は好きになっていきましたが、この時の「英語が好き」は「コミュニケーションが好き」ではなく、数学の公式のように文法・構文を一つ覚えると、沢山の問題を解ける、という極めて(一般的な日本人にとって)現実的な「英語好き」でした。勉強嫌いだった私が初めて参考書の類(英語の文法参考書&問題集)を自発的に買っ(てもらっ)たのもこの頃で、文法・語法問題を眺めては心を踊らせていました。因みにこの頃のお気に入り表現は高校受験参考書に出ていた「cannot help but (動詞の原型)」で、これでなぜ「〜せざるを得ない」という表現になるのか、なぜ主動詞としてhelpがあるのにbutの後は動詞の原型なのか、などパズル的な要素に魅せられていました。


そのような「英語」好きになると成績は更に上がるようで、中3の3学期にして初めて10段階で10の評定をもらって嬉しかったのを覚えています。中学では3年間を通して5段階(1・2年生)の5、10段階(3年生)の10を取ったのは全教科を合わせてもこれ一度きりでした(それでよく博士課程でケンブリッジに留学できたものだと思います。中学校の成績と大学院留学は関係がないのか、留学できてしまったのは何かの間違いなのか、あるいはその両方か・・・)。


少し話が前後しますが、中学校の授業は三年間を通して典型的な訳読とドリルでした。2・3年生時には大阪弁混じりの英語を話すおばちゃんが先生で、中学3年生時にはrecomendと書いたところrecommendではなくrememberと文脈を無視して直された記憶があります。また中学3年生の夏に市の英語暗唱大会に出場しました。ガンジーの手紙(の一編?)を暗唱して発表したのですが、上位大会(府大会?)への進出はなりませんでした。文法好き+多少話し慣れている程度で、発音のトレーニングを受けたわけでもないのでやむを得ません。当時は(多分いまも)発音がひどかったのでしょう。また同じく中3の後期に英検の3級は合格したものの準2級に不合格だったことから、総合的な英語力(しかし特に語彙力)も中学生レベルを超えるものではなかったと思います。


【高校時代】
その程度の英語力しかありませんでしたが、高校は米国シカゴ近郊の公立高校に入学しました(厳密に言うと四年制の高校への二年次編入)。義務教育なので入試等はなく、渡米その日に早速近くの高校に行き、入学手続きのようなことをしたのを覚えています。ESLプログラムは充実していたものの日本人はほとんどおらず、毎日大量のインプット&強制アウトプットの日々でした。ESLでは読み書きが中心で、To Kill a Mockingbirdなどの米国のクラシックを中心に読んだり、ESL用の文法ワークブックをこなしたりしていました。他教科では必修科目にはLEP(Limited English Proficiency)のクラスが用意されていて、世界史、家庭科、米国史などはLEPを履修しました。レベル別に分かれている数学や物理などは他の非ESL生徒と同じ授業を履修しましたが、特に数学に関してはそもそもレベルが高くなく、また言語のほかに数式という情報伝達手段があるためか、それほど英語という面では苦労しなかったような気がします。


英語の学習という視点からは、ESLの授業を別にすれば特に意図的に英語を勉強したということはほとんどありませんでした。偶発的学習は日常茶飯事で、電子辞書も毎日フル活用していましたが、問題集を解いたり文法書を読んでみたりということは日本から持って行っていたビジュアル英文解釈速読英単語などをパラパラ見るのと後述するTOEFL・SATのための勉強を除いてありませんでした。


さて、充実したESLプログラム、LEP授業、米国の公教育の水準の低さが相まって、日本の普通の公立中学校から米国の公立高校に入学した場合でも、標準修業年数で卒業できます。卒業後は家族と共に日本へ帰国し、日本の大学を受験するつもりでした(なぜか米国の大学への進学はほとんど考えませんでした)。日本の大学受験だと帰国子女枠での受験になりますが、その場合、当日の試験(主に英語と小論文)のほかに、TOEFLSAT(米国のセンター試験のようなもの。複数回の受験が可能)のスコアの提出が求められます。TOEFL(CBT)は初回から250点弱を取得できていた(ただ実際に250点を越えるには初受験から1年ほどが必要でした)のですが、問題はSATでした。SAT(厳密には特定科目ではなく全体的な進学適性を測るSAT I)は当時はVerbalとMathから成っていて、Mathは日本の中学校レベルなのでそれほど問題にならないのですが、Verbalはセンター試験の国語を外国人が受けるようなものなので、何のトレーニングもなく受けると撃沈してしまいます。特に当時は語彙を直接問う問題が多く、やむを得ずSAT受験用の参考書に付いてくる単語帳などで勉強し(ようとし)ました。ただ、今SATの問題を見てもさっぱり分からないあたり、少なくとも身についてはいませんし、おそらく当時もまともに覚えてはいなかったのだと思います。


【浪人(?)時代】
帰国後、半年ほど大阪の江坂にある代ゼミに通っていました。帰国生用のコースを開講している予備校の中で大阪に校舎があるのは少なくとも当時は代ゼミのみだったからです。上述したように帰国子女枠の受験では英語と小論文が主な試験科目になります。帰国子女枠の英語は一般受験の英語と比較して難解かというとそんなこともなく、問題もそう大きくは変わりません。米国での高校時代を経ても文法好きは変わっておらず、それに加え一般的な英語力も付いてきていたので、受験のための英語に関しては予備校の授業(+宿題)+過去問演習程度の勉強しかしませんでした。


一方で並行して英検も受験し、準1級には合格したものの1級は要約問題でコケて不合格でした(直後から要約問題がなくなり、翌年1級にも合格。英語力が伸びたためというより問題の相性により合格したのだと思います)。ただこの時も多少は単語帳と向き合ったものの、基本的にはその時点での腕試し的な要素が強く、あまり真剣には勉強しなかったと思います。


【大学学部時代】
振り返ってみれば私の興味の範疇は完全に理系分野なのですが、帰国子女枠があるとはいえ、米国からの帰国子女にとって理系受験は厳しいです。馴染みのない数学用語はもちろん、数学の授業で扱われる内容も日米で異なる(厳密には米国も授業の習熟度レベルにより全く異なる)ので、理系を受験するのであれば相当の覚悟を持って半年間ほど勉強しなければなりません。それでも今思うとその努力をして理系学部に進学するべきだったのではないかと思いますが、当時はそれほど自分が理系に偏った人間だという自覚はなく、また自分の強みは英語であると思っていたため、それを伸ばすなら文系だろうと漠然と考えていました(この辺りの思考の狭さは今から考えると大いに反省すべきところがあります)。特に経済や法律に興味があるわけでもなく、また直接英語力を伸ばすのであればそれに関係しそうな学部が良いだろうと、外国語学部英語学科なるところへ進学しました。


英語学科と謳っているだけあり、学科科目は大半が英語で行われます。SLAや英語教育関連科目も全て英語で行われていたので、大学院に進学して日本語での授業を受けた時にとても新鮮だったのを覚えています。英語力増強を目的とした授業で言えば、「イングリッシュ・スキルズ」「英作文」「英文購読」などが1・2年次に必修で、それなりの量の英語を処理・産出したように思います。英語によるプレゼンも日常的にあり、学期末は毎週のように何か発表していました。また必修ではありませんでしたが「通訳入門」という授業では週刊STの特定面(3ページくらいだったでしょうか)から毎週単語テストがあったり、Foreign Policyという英語面でも内容面でも難解な外交誌を精読したりと、こちらではそれらしい英語の勉強もしました。ゼミや卒論は必修ではありませんでしたが応用言語学ゼミに出席し、ゼミ論(英語授業でのクラスルームディベートの功罪)と卒論(日本の英語教育の目的について)も英語で執筆しています。この頃から徐々に学術英語にも慣れて行ったように思います。


しかし私の学部生活の大半を占めたのは学科での勉学ではなく、ESSでの英語ディベートです。炭素税、共通通貨、外国人労働者問題など広範な社会問題について調べ(これは日本語であることが多い)、原稿を書き(英語)、実際にディベートを行う過程で、学術的な、あるいはフォーマリティーの高い英語に多く触れることができました。またディベート以外でもESSではAll Englishの合宿(年2回)やLunch Time Talksと称して毎日昼に集まって英語で特定トピックについて小グループで話すイベントなどがあり、学科外で英語との接点をコンスタントに持つことができました。


また学部時代を通し、力試しにTOEICTOEFL (CBT)、TOEFL (iBT)、TOEFL (PBT)*1、英検、国連英検ケンブリッジ英検、(今はなき)通訳検定など英語関連の様々な試験を受験しました。受験勉強をすることは稀で、いずれの試験も過去問を買ってきてざっと解いてみる程度で本番を迎えていたと思います。そのようなスタイルでは不合格がもう一度挑戦して合格になるということはほとんどなく(上述した英検のみ)、国連英検の特A級には三連敗を喫して現在に至ります。ケンブリッジ英検CPEも一度不合格になり、こちらは全く実力が足りないと感じたため、それ以降は受験していません。TOEICTOEFL (PBT)、TOEFL (CBT)、TOEFL (iBT)は学部卒業時にそれぞれ950点前後、647点、267点、104点だったように思います。通検は「あと一歩で2級」という準2級なる成績で、リベンジの機会を窺っていたところ、ほどなくして主催団体である日本通訳協会が倒産してしまいました。


【大学院時代(日本)】
ゼミで学んでいたSLAが面白かったため、卒業後は学習塾の専任講師になろうと就職活動をし*2、内定も得たのですが、4年生の夏の(その塾での)インターン中にそこは「英語」教育の場ではないと感じ、進学を決意しました。如何せん進学を決めたのが遅かったので受験できる大学院も少なく、受験できそうな所は大体受けた結果、国立大学の英語教育学専修コースというところに進学することにしました。因みにその母校受験時に提出した研究計画は「小学校英語」に関するもので、ほぼ同時期に受験していた某大学へ提出したものは「日本の英語教育の目的」と節操がないことから、切羽詰まっていた様子が伺えます。


大学院に入学後はほぼ全ての授業が日本語で行われるようになり、音声面でのインプットは格段に減りました。そうは言っても高校〜学部と英語で教育を受けていれば多少のことで英語力は落ちませんし、偶発的学習の機会が減った、くらいの影響だったと思います。テキストは学部に引き続きほとんどが英語のものでした。


M1の2月から3月にかけて、学部時代に力を入れていたディベートが高じて日米交歓ディベートUSツアーというイベントに参加させて頂けました。これは約一ヶ月をかけて米国中を周りディベートを行うというもので、人生から任意の27日間を抜き出してその中で最高のものを選ぶとこの27日間になるであろうと今でも思うくらい、とても良い思いをさせて頂きました。国外に一ヶ月も滞在するのは高校以来で、最初こそなかなか頭が英語モードになりませんでしたが、しばらくすると慣れてきて、周囲が基本的に英語であるという環境がどういうものなのかを思い出すことができました。惜しむらくはこれは今でもそうなのですが、その英語圏に滞在している時の英語に関する皮膚的な感覚は日本に戻って数週間もすると失ってしまうことです。記憶としては英語を話すイメージを持っていても、実際に英語で話す感覚は日本にいると驚くほどすぐに消えていきます。


大学院に進学しても半分は趣味で、半分は留学を視野に入れて、TOEICTOEFL (iBT)、IELTSを受験しました。相変わらず特に受験勉強をする訳ではなく、とりあえず受けてみたという感じですが。TOEICは970、TOEFLは学部時は散々だったスピーキングが3点だけ伸び(19→22)他技能はトータルで変わらず107点、IELTSはTOEFLでは(現所属の)RCEALが要求する英語力(TOEFL (iBT)で109点、IELTSで7.5)に届かないため受験し8.0でした。ほかには研究の被験者としてSSTVersantも受験しました。うろ覚えですがSSTはともかくVersantは大分点数が低かったと思います。


【大学院時代(英国)】
現在、英語は教育のみならず、生活に必要な言語の地位を再び占めています。ただ高校時代と比較して授業他の縛りが強くない分、自由に使える時間が多く、そして2000年前後と比較してインターネットが発展しているため、その自由な時間に日本語のインプットも多量に受けています。そうは言っても部屋を一歩出れば食事時の会話からして英語ですから、やはり日本での生活と比較すると英語のインプットは増え、その分英語自体の(偶発的な)学習機会も増えていると思います。


【少しマクロな視点から】
上記から明らかなように、私は英語「を」勉強して英語力を付けたことは中学校時代を除きこれまでほとんどありません。英語力増強を目的とした授業は主に学部時代にそれなりに履修しましたが、それらを合わせてもどの程度私の現在の英語力に寄与しているのか怪しいように思います。むしろ私の現在の英語力の多くの部分は授業内インプット、ディベート学術書などを通して偶発的に習得したものだと考えています。もちろんこれは私にとって英語の勉強が意味がなかったというわけではなく、単純に量の問題だと思います。つまり英語を勉強していた時間よりも、英語を使って何かをしていた時間(というより英語の処理量)の方が遥かに多く、従って習得全体を見ると後者が占める割合が高いということではないかと思います。またtransfer-appropriate processingという観点からも英語で何かをする方が習得に結びつきやすいと言えそうです。


現在の音声面での英語力としては、講義やforeigner talk、ドキュメンタリーのようなテレビ番組であれば概ね理解できるものの、母語話者同士の会話や映画は理解できないことが多い、という程度です。これだけだと高校時代と変わっていませんが、違いは主に読み書きで、特に学術英語を読み、多少なりとも書けるようになったのは学部以降の教育とディベートのお陰だと思います。


正直に言ってしまえば英語力を上げようという気持ちが今は大分薄れています。まだまだ英語に不自由はして、母語話者同士の会話も理解したいとも思うのですが、勉強・研究に関する限り最低限のニーズは既に満たしてしまっていますし、今後の努力に対するリターンが小さい気がするのです(まあそれ以前にこれまで英語の勉強をほとんどしたことがないので今更しようと思わない、というのもあります)。偶発的学習は今後も断続的に起こるのでしょうが(昨日もfortnightという語を調べて多分覚えたと思います)、意図的に英語を学習する機会はもしかしたらもうないのかもしれません。

*1:iBTの会場が少なく予約が取れない人が続出したため一時期復活していた

*2:教職課程は履修していなかったため教員という道はなかった